2023年3月更新。
3月になると思い出す、数年前の東北での思い出を今日は話そう(^_^)/
2017年の6月、私はマラソンを始めた。
マラソンを始めてすぐ、ペースもよく分からずがむしゃらに走ってたら1kmも走れず息切れして歩いてばかりいた。
思いのほか走るのは爽快で、汗をかいて疲れきる感じが気持ち良く、すぐにはまった。
元々小学生から社会人までバスケをしてたから運動は好きだった。
上下関係に厳しく、ビンタされて「ありがとうございます!」っていう世界で育った体育会系女子チチ。
今はゆるく生きるのんき女子チチ(・∀・)
話を戻そう。
すぐに大会を探してみたら見つけた。
「復興マラソン」
私は21〜22歳まで仙台で暮らしたことがあり、28歳で進学した看護大学も東北大震災の被災地だった。
走ることで応援になるなら。
一瞬で目標が決まった。
自分がフルマラソンを走るなんて考えたこともなかったけど、考えてたらめんどくさくなって走るのやーめた!ってなりそうだから考えないようにした。
とりあえず走ってたらどうにかなる!
●あの日
2011年の3月11日の午後、私は大学1年の終わりの春休みで、沖縄に帰省してデイサービスにボランティアに行ってる時だった。
テレビに映る津波の光景が信じられなかった。
東北にいる友だちに連絡したけどつながらなくて頭が真っ白になっていた。
その日の夜、震災のニュースを見てたら吐いた。
大学の建物も使えなくなった棟があり、始業の時期を延期する、との連絡が続いた。
5月が過ぎて大学に戻れることになった。
当時大学構内の女子寮に住んでて、寮に戻ったら、同じ寮生の実家が福島原発から近くてもう実家に戻れない状況だった。
津波で家を流された人の話も聞いて、あの時の感情は言葉では表せない。
震災から数年経ち、お世話になった場所に少しでも恩返しできるなら、被災地の応援になるなら、と「復興マラソン」の文字を見て当時の出来事や感情が思い出され、猪突猛進チチが始まった。
●ランニングの日々
第一回目の復興マラソンまで4ヶ月しかなかった。
マラソン初心者の私は知識も経験もないから、とにかく走って持久力をつけようと考えていた。
職場まで毎朝5〜8km走って通勤、シャワーを浴びて仕事して、休みの日は長めに走っていた。
初めての大会は八景島シーパラダイスで開催された10kmのビーチマラソン。
完走した時、10kmってこんなにしんどいのー!!とこれまでマラソンをなめてたな、と思った。
くたくたでビールも喉を通らなかった。
曇ってて走りやすかった
ワイワイ賑わってた
夏はフルマラソンを走れるレベルか知るため、30kmの大会に出てみた。
初めての30kmマラソン大会、緊張で顔が強張っている。緑のTシャツは夫から借りたヤンバルクイナのプリントがされたやつ。胸の中央には「WOOD RUNNER」って書かれてて、意味は「森の走者」。
完走できる気しかしない。
ビリで完走できた。大会スタッフさんたちを暑い中長いこと待たせてしまったから、謝ってお礼を伝えているところ。
着替えてパシャリ。照れてる。Tシャツのプリントはカンガルー。もう飛べる気がする。
いよいよ復興マラソン大会の前日。
福島に前泊した。
私1人じゃ心配だからと同僚がついてきてくれた。
昔から周りに心配かけちゃう(・∀・)
大会前日だけど飲みに行った。
目標、「お金いっぱい使おー!!」を合言葉に同僚とたくさん食べてたくさん飲んだ。
駅やお店、看板、色んな場所に書かれてた。
【頑張ろう福島】
●大会当日
★復興の景色
ホテルから見える朝陽がキレイだった。
仙台に到着。
2017年10月1日
復興マラソン、スタート\(^o^)/
走りながら見えた景色は、被災地を応援しに来たランナーたちを、応援しに来てくれた被災地の人々だった。
復興支援 ありがとうって。
復興中の景色が広がる。海沿い。津波防止で土が何重にも重なってる。
★走るチチ
自動で機械が撮ってくれた写真。
前半は余裕。沿道で声援を送ってくれる人たちにハイタッチ。白い服が私。また夫からTシャツを借りた。後ろの肩のとこに走ってるヤンバルクイナのプリントがある。
35km地点を走っていると、「今のペースだと間に合わないよー!!」と叫んで教えてくれた人がいた。
あと2km先を制限時間内に通過しないと失格になる。
それを聞いて猛ダッシュ。
もう苦しいのなんの。
猛ダッシュ。
私は応援しに来たんだー!!ここで諦めるわけにはいかないんだー!!!
と叱咤激励マイセルフ。
その時の私がこちら。苦しくて顔が酸素と休憩を心の底から求めてる(笑)
ギリギリ、37km地点、最後の関門を通過できた。
力を使い切ってもう走れなかった。
歩き始めた時の私。清々しい。
ゴールまであと300mなんだけど、右足が痛くて一歩一歩が激痛なのと、ゴールして帰る途中のランナーたちの声援の温かさで涙が止まらない。
無事、ゴールできた。フルを走り切れた私の顔は般若だった(笑)
●応援は最高のエネルギー
マラソンを始めて4ヶ月でフルマラソンに挑戦するのは無謀な気もしたけど、何事もやってみないと分からない。
結果、やって良かったし、東北に来れて良かった。
「応援する」「応援される」ということがどれほど尊いか、生きてきてこんなに思い知ったことはなかった。
私は断言できる。
沿道の声援や人々がいてくれなかったらゴール出来なかった。
30km以上は初めてのことで、足に鉛が縛られてるのかと思うくらい足が重かった。
声援のおかげで自分の力以上の力が出せた。
復興マラソンのコースはほぼすべてが被災した場所で、エイドステーション(コース上に設置された、食べ物やドリンクを提供する場所)は、津波で流される前は集落があった場所に設置されていた。
そのエイドには、その場所で暮らしていた人たちがいた。
コースには、まだ舗装されてない道もあったり、慰霊碑が立っていた。
今私が走ってるここに、家々が並び、人の営みがあったんだと思うと被災した人々への祈りと、走らせてもらえることに感謝せずにはいられなかった。
あの時、ランナーのほとんどが同じ気持ちだったと思う。
30km地点の手前にあった慰霊碑に、ランナーたちは立ち止まって目を閉じ、手を合わせた。
あんなにたくさんの人たちが応援し合ってた場所は、愛と希望に満ち溢れたエネルギーに包まれていた。
私も、初めてのフルマラソンのゴールは、完走者だけにしか味わえない達成感でいっぱいだった。
自分のために、人のために、行動してみるときっと何か良いことがある、と教えてくれた気がする。
●筋肉が固まる
帰り道。
まだ体が出来上がってない状態で走り、無理した影響で、会場から3kmの空港まで歩いて行けなくなっていた。
亀より遅い。
周りはもう暗くなり、人がいなくなっていた。
何かにつかまらないと歩けなくて、同僚が介助してくれた。
「ほんとついて来て良かった。チチ1人だったら野垂れ死んでたよ」って言われた。
間違いない。
仙台空港に着き、せっかくだから牛タンを食べた。
すごく美味しかった。
東京まで行けたけど、もう一歩も歩けないー!ってことで夫に迎えに来てもらって無事横浜に帰宅した。
1日休んで職場に行ったらお土産持って階段が登れず、事務長に持ってもらってペコペコ、
仕事中は使い物にならなくて落ちた物も拾えず、先輩たちが「いいよ!ほら!拾うから言いな!」と助けてくれて、
まともに歩けず処置カートを引きながら亀歩行。
色んな人の助けを借りないといけない状況なのになぜかその日私はヒーロー。
休むべきだったのにみんなから「完走できるなんてすごいね!がんばったね!よく来た!偉いよチチ!」 と逆に褒められ、上司も大会の時の話を聞きたくてウズウズしている様子だった。
だからちょっと教えたら喜んでくれてた(笑)
昔から誰かに助けてもらわないと自分の目標を達成できないという。。。えへ(^^ゞ
だがしかし、良い行いもした!
初めてのフルマラソンだったにも関わらず、メディカルチームに入り、マラソン中コース内での急病人を数人救助対応ができた。
(名誉挽回(・ิω・ิ))
●疲れを癒やす
大会から数日経った日、一人でちゃんと動けるようになった私はオカマバーで癒やしてもらった。